ローザロッサ

九条 桜

 

「バー"bloody"へようこそ。今宵はごゆっくりお楽しみください。」
僕は店主のその言葉が聞きたくて毎日の様に、ここ"bloody"に通っている。
酒が弱いにも関わらずだ。
ほの暗い店内。カウンターの奥には所狭しと古今東西の酒が並べられている。
今夜もカウンターで一人舐めるようにちびちびとやっていた。
「あら、アマレット、又来てたの?」
「今夜も飲んでいるフリでしょう?」
二人の女性が僕に声を掛けてきた。彼女たちは気味が悪いくらい良く似ていた。双子の姉妹だ。違う点といえば姉のモニカの口元には小さなホクロがついているという事ぐらいだろう。
モニカもリッキーも僕と同様この店の常連だ。僕らはこの店で仲良くなった。
「やあ、モニカ、リッキー。二人とも今夜も綺麗だね。」
僕は苦笑いしながら二人を褒めてやった。これは本心からなのだが。
長い巻き髪は黒で、彫りの深い目鼻立ち、長くカールさせた睫。白い肌、普通の女だったら、ただ下品になってしまいそうな真っ赤な唇はそれとは違って彼女たちの美しさを引き立てる素晴らしいパーツのひとつだった。
だが彼女たちに欠けている物も…。
「当たり前でしょう。ホントに駄目男よねぇ。」
「まったくよぉ。」
僕は肩を竦める。このように口が酷く悪いということだった。だが僕らはいつもこんな調子でやり取りを楽しんでいるのである。

「カンパリテロッサです。テロッサと言うのはフェラーリの車の名前で、その車の様にアルコールが回るのが早いという理由からこの名前がついています。"テロッサ"ではなくどうぞゆっくり楽しみながらお召しあがりください。」
 横の方でこの"bloody"の店主が女性客に酒の説明をしている。女性客も僕も、モニカやリッキーでさえも恍惚とその姿を眺めた。
女性客は彼のゆっくり召し上がれと言うのを守らないだろう。すぐにグラスを空にして次の酒を頼むのだ。例え僕の様に酒が弱くとも店の雰囲気とマスターの雰囲気、それに酔いしれ酒に酔ったことなど分からなくしてしまうのである。
シェイカーを振る姿や客への優雅な対応、澱みなく酒を説明する様、どれをとっても彼は僕に尊敬と羨望の眼差しを向けさせた。

「ジン、モスコミュールをちょうだい。」
「私にはスプモーニを。」
モニカとリッキーはマスター・ジンの気を引かせるためか僕の隣におとなしく腰を下ろし注文をした。
「ようこそ、モニカ、リッキー。相変わらずの美貌ですね。」
ジンのその言葉に僕のときとは180度態度を変えて彼女たちは嬉しそうに頷いた。
「ジンの所為なのよ。ねぇモニカ?」
「そうよ、女は恋によって美しくされるのだから。」
それぞれのグラスを受け取ると彼女たちはカチリとそれを重ねた。
ジンは特に顔色も変えず微かに微笑んでいるだけだった。

「アマレット何か作りましょうか?」
僕のグラスが空いたのを見てジンは尋ねてきた。

よくあるバーテンの衣装も彼にかかればどんな服より素敵だったし綺麗に梳かしつけられた黒い髪も灰色の少し冷たく見える瞳もこの上なく美しかった。
男の僕がこんな風に男を綺麗だの美しいだの褒めるのはおかしなことと思われそうだがそれは紛れもない真実で、男性だって10人中10人がこの形容詞を使うだろう。
酒に酔ったのかジンに見とれていたのかしばらく僕の脳みそは働かないでいた。

「い…いや、もう結構です。」
やっとのことで僕は言葉を発した。やばいぞ、本当に酷く酔っ払っている。
「大丈夫ですか?アマレット。大分酔っているようですが…」
僕は一回頷きそしてぶんぶんと首を振った。駄目だと言いたかったがジンに余計な心配をかけさせえたくない。
「大丈夫です。」
「本当に駄目男っ。僕ちゃんは早くお家に帰ってお眠りよ。」
モニカの意地の悪い言葉に異論を唱えることもできず僕は立ち上がった。ポケットを弄り何枚かの紙幣をカウンターに置いた。
「少々お待ちを。ただ今釣を用意いたします。」
僕は首を振った。
「今度来るときにして下さい。…またきますから。」
「…わかりました。どうぞ気を付けてお帰りください。」
僕はジンの微笑にさらにクラリとしながらよろよろと無様な姿で店の外に出て行った。

雨上がりの通りは生暖かな風が吹きぬけアスファルトは街灯に照らし出された部分が黒光りしていた。月や星は無く本当に寂しさを感じさせる夜だった。
千鳥足で通りを僕のアパートに向かって進んでいると前方から黒いスーツ姿の男がやってきた。喪服だろうか、真夜中には少し気味悪く感じられる人物だった。
金髪にグレーの眸。どこかジンに雰囲気が似ているような気もしたが、ジンには無い凶気の様な冷たいものを感じ、僕の中に恐怖が広がった。目を合わせないようにし、僕は少し早足で歩いた。彼とすれ違うと僕の心臓は嫌な感じにどくどくと脈打った。

「俺が怖いかい?」

男に急に声を掛けられ僕の心臓は今度は大きく飛び跳ねた。恐る恐る振り返って見ると彼はにやりと笑い僕を見ていた。
「やあ、青年。君から私に似た匂いが微かにするんだが?」
「…何のことでしょう?」
僕は酷く混乱しておどおどと答えた。
しげしげと男は僕の事を観察した。僕が本当に何の事かわからないのを悟ったのか男はちょっと考え込んだ様子だった。
「否、失礼。」
そういうと男は僕のぐいっと引き寄せると僕の首筋に顔を覆い被せてきた。僕はもがいて彼を引き離した。痛みは無かった。どうやら彼は僕の首筋にキスをしたようなのだ。
「何するんです!!」
僕は顔を紅潮させて叫んだ。酒の酔いはすっかりひいていた。
「ちょっと印を付けさせてもらっただけだよ。なぁに、君には害は無いから。ちょっと私の人探しに協力させてもらうんだよ。まあ、また俺とは近いうちに会うだろうね。」
そういい終わるか終わらないうちに男は僕の目の前から音も無く消えた。本当に"消えた"のだった。
「なんなんだ…?」

パニックになるのを抑えながら僕は必死に自分の部屋までたどり着いた。鍵をしっかりとかけると僕は深い溜め息をついた。額にはじっとりとした汗をかいている。 ドクドクと脈打つ心音が少し収まってから僕は玄関にある鏡に自分の姿を映し出してみた。なんて情けない顔をしているのだろう。そんな僕の顔から目線を首筋に移してみる。 そこには赤い痣ができていた。その痣はバラのような形をしていた。僕はそれから目をそらし急いで寝室へ向かった。夢だ。寝たら覚める。僕は着替えもしないでベットに潜り込んだ。

翌日の目覚めは最悪だった。二日酔いの所為か、はたまた嫌な夢の所為だろうか。僕は鏡を見て一層憂鬱になった。昨日の痣はまだそこにあった。

僕は4日間外に出ることをしなかった。何か起こるかもしれないと言う不安からだった。だが何も起こることなく5日目の夜を迎えたとき些か臆病な自分に嫌気がさしていた。
僕は意を決して外に出た。まあ行く当てもないので結局は"bloody"へ向かったのだが。
痣が見えないように立て襟のシャツという格好だった。

「ようこそ"bloody"へ、アマレット。」
いつものようにジンは僕を迎えてくれた。
「パナシェを…。」
ジンは頷いて動き出した。僕はリッキーを見つけ彼女の横に腰掛けた。
「こんばんはリッキー。モニカはどうしたんだい?君たちいつも一緒なのに。」
リッキーは困惑の表情を浮かべジンの方に視線を送った。喧嘩でもしたのかなと思ったたがそういうことではないらしい。
「いないのよ…姉さん。」
リッキーは酷く狼狽していた。とても珍しいことだった。いや、そんな様子を僕は一度たりとも見たことが無かった。
「パナシェです。…アマレット、モニカを見ませんでしたか?」
ジンの問いかけに僕は首を振った。
「いいや、ここ何日か僕は一歩も自分の部屋から出なかったから。」
そう言って僕は立て襟の上から首筋を触った。
「モニカの事だからきっとボーイフレンドの所にでも居るんじゃないかな?」
「姉さんが私に何も言わないで出て行くなんておかしいのよ。取り敢えず姉さんの行きそうな所を全部あたってみたけど…全部ハズレ。ジンの所になら来そうだから、ここでこれからどうしようか考えていたんだけど…。」
いつもの意地悪リッキーは今日はいなかった。

ズキンッ-----------

「つぅ…。」
僕の痣が突然痛んだ。
「どうしましたか?」
「否、大丈夫だよ。」
僕は首筋に手を置いた。ジンは突然険しい表情に変わった。彼はカウンターから出て僕の方に歩み寄ると半ば強引に僕のシャツを開いた。
「これは…ツェラー!?」
ジンは厳しい目つきで僕を見つめた。
「この痣はどうしたのですか?」
いつも穏やかなジンが少しばかり怒っているように感じられた。僕はこの痣をつけられた夜のことを話した。
「そうですか…詳しく話すことができないのですが…その男には気を付けてください。彼は人を探してると言ったのですよね?きっと私の事です。万が一彼にまた会うことがあったら私がここに居ることを教えてあげてください。」
僕は幾つか質問をしたかったが彼に何か言える雰囲気ではなかった。
「リッキー、私にモニカの居る場所の見当が付きました。今日は御自分の家にお帰りなさい。私が彼女を探しに行ってきますから。」
リッキーは頷くと姉をよろしく頼むといって店を出て行った。
「申し訳ありませんがアマレット、今日はこれで店を閉めようと思います。」
僕はパナシェを一気に飲み干した。
「良くわかんないですけど…モニカには無事に帰って来てほしいです。」
ジンは目を細めて大丈夫と小さく呟いた。
「では、僕も行きます。」
席を立ち店を出ようとしたときジンに呼び止められた。
「アマレット、くれぐれもお気を付けて。」

あの夜とは違い今日は月も星も出ていた。満月だろうか?丸い月は何故か気味悪いほどに赤く大きく臆病な僕を怖がらせるにはちょうどよかったこの前あの奇妙な男と出会った場所に差し掛かろうとしていた時のことだった。

「アマレット」

またもや突然呼ばれて振り返るとそこにはモニカが立っていた。
「モニカ!リッキーが心配していたよ。今までどこに行っていたんだい?」
モニカは虚ろな目をしていた。近寄ってきて僕の手をとるとぐいっと引っ張った。
「来て…」
「えっ…?」
僕は有無を言わさずぐいぐいと引っ張られていった。

付いたのはこのあたりで一番の高級ホテルの一室だった。
中にはこの前の男が椅子に腰掛けていた。
「やあ、よく来てくれたね。」
僕は震える声で尋ねた。
「貴方は誰なんですか?一体何者?」
「私の名前はツェラー。」
「ツェラー?」
ジンが言っていた名前だ。
「私の正体を明かすのはもう少し後にしよう。先ずは面白いショーを君に楽しんでほしくてね。」
そういうとツェラーは僕の目の前に音も無く立っていた。
「どうやって?」
「こんな事は俺にかかれば造作も無いことなんだよ。気の毒だけれどもちょっとこれから俺のいたずらに付き合ってもらおう。」
そうツェラーはまた嫌な笑みを浮かべて僕の瞳をじっと見た。僕の意識は突然闇の彼方へと引きずり込まれていった。

「ん…う…」
俺は差し込んできた陽の光によって目を覚ました。僕はソファーに座らされていた。横の方にあるベッドに目をやって僕は驚いた。
ベッドに横たわっていたのはモニカだった。
モニカは首筋をナイフでずたずたに切り裂かれて死んでいた。なぜナイフだとわかるかというと僕の手に凶器だと思われるナイフが握らされていたからだった。よくある三文小説の主人公の様に僕はおかしな罠にはまってしまっている。
しかも僕の目の前で無残に殺されているのは僕の愛すべき喧嘩友達ではないか!
「何てことだ…。」
僕はどうすることもできず泣きじゃくりながらその場に座り込んでいた。

どれくらいの時間がたっただろう。ホテルの清掃員がやってきて僕らを見つけた。このあたりもツェラーの筋書き通りなのだろう。清掃員は掃除を頼まれたと言って入ってきたのである。もちろんすぐに警官がとんできた。
僕は結局、殺人者として連行されようとしていた。このままでは間違いなく僕の仕業ではないか。間違いなく誰も僕の無実を信じてはくれないだろう。
ひとしきり泣いてから泣くのをやめた僕はその場を逃げ出した。無我夢中でどうやったかは覚えていないがうまく逃げることができた。あたりはまた夜の帳に包まれていた。
全速力で走って向かった場所は"bloody"だ。ジンならきっと全てを知っている。彼なら助けてくれると信じて。
「ジン、ジン!!助けて!!」
僕は店へ飛び込んだ。ジンは小さなテレビモニターを見ていた。
「モニカが殺されましたね…。」
そこには僕の顔写真も映し出されていた。
「馬鹿な!?」
おかしい。いくらなんでもこんなに早くニュースになるなんて。
「アマレット…」
「違う僕じゃない!」
「もちろんです。」
ジンの一言に僕はほっとした。
「一体全体何なんなのですか!!あのツェラーという男は!?」
ジンは下唇を噛んだ。

「ほらジン、説明しておやり。」

天井の方から声がした。僕とジンはばっと上を向いた。ツェラーはまるで蝙蝠の様に天井にぶら下がっているのである。
「僕をずっとつけていたのですか?」
「悪いね…えーとアマレット君だっけ?ただジンの所に案内して貰うのではつまらないので君に殺人者という役をやってもらったよ。どうだい?」
「相変わらずくだらない遊びが好きですね。」
ジンは履き捨てるように言った。
ツェラーは僕らの目の前に降りてくると近くにあった椅子に腰掛けた。
「やれやれ。」
ツェラーはいじけた様な表情を作った。
「何、食事をしてお前の所へ赴こうとしただけじゃないか。」
「一体…?」
わけがわからず呆けている僕にツェラーは親切丁寧に説明を始めた。
「やあ、アマレット君。いいかね?俺はね吸血鬼なんだよ。」
「吸血鬼…?」
「そう吸血鬼。そこに居るジンもね。」
僕はジンを見つめた。ジンはツェラーを睨んでいた。
「正確に言えばジンは人間とのハーフだからなぁ。考え方が甘いんだよね。なあ"息子"よ。」
「やめてください。」
ジンはツェラーを殴り飛ばした。
「嗚呼、酷い仕打ちだなぁ。実の父親を殴り飛ばすなんて。」
「貴方のような冷酷な生き物を父親などとは認めません。モニカも血を全て吸い尽くさなければ死ぬことはなかったでしょう?しかも首を切り裂いた挙句アマレットを犯人に仕立て上げそれを見て喜んでいるなんて!!」
美しい顔は憎悪に満ち溢れていた。
ツェラーはやれやれと溜め息をついた。
「そんなことでは吸血鬼として生きてゆけないぞ。」
ツェラーは足組みをした。

「吸血鬼こそこの世の悪を体現するものでなければならない。」

ツェラーはうんざりしたような顔をする。
「長老がお前を見つけてくるように俺に指示をくだした。いいか、ジン。俺はお前がどんな風に生きようと興味はあまりない。だがなぁ、長老はお前のことをいたく気にしておられる。お前には未知なる力があるのだとよ。これから俺と一緒に長老の元に行くんだ。」
「…」
ジンは無言でそれを拒否した。僕と言えば本当に現実のことなのか頭が理解できずに悲鳴をあげていた。
「では無理やりでも連れて行く。下手すれば俺まで始末されてしまうからな。」
ツェラーはジンに襲い掛かった。ジンは必死に抵抗するも、とてもツェラーの力にはかないそうもなかった。その時ジンはどこからかアメジストの石のついたクロスペンダントをツェラーの額に押し付けた。
悲鳴を上げてのた打ち回るツェラー。彼の額からは白い煙が昇った。
「逃げますよ。」
「逃げたところで俺にはお前の居場所がわかる。いいかよく覚えておくんだな。」
ツェラーの恐ろしい声を背後に聞きながら僕たちは裏口を飛び出した。
ジンは僕を連れ店のガレージに止めてあった車に僕を押し込んだ。エンジンをかけると車は猛スピードでその場を後にした。

「申し訳ありません、私の父の所為で…。そして私の力が及ばない所為で…。私は吸血鬼と言ってもほとんど人間です。今のままではツェラーにすらかないません。」
ジンが苦渋の表情でさらにアクセルを踏む。
「僕はお尋ね者になってしまったんですよね?」
「…ええ…。」
「"bloody"はどうするんです?」
「暫く締めなくてはなりません。私も貴方と同じ逃亡者です。」
ジンは力なく微笑んだ。僕らは明日が見えないまま車を走らせることになった。色々ありすぎで僕は疲れていた。
「アマレット少し寝てください。貴方が目覚めたとき自体が好転しているとは思いませんが…。」
僕は眠りの中に落ちていった。恐ろしい不安に掻き立てられながらも。


痣が疼くのを感じながら


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